中島岳志『秋葉原事件 加藤智大の奇跡』

 

 母の厳しすぎる教育と過度の介入、内面を見せることが苦手な性格、不満を言えず行動でアピールするパターン、キレやすい性格、突発的な暴力性、勉強の挫折、学歴へのコンプレックス、非モテ、外見、掲示板への没入、ベタのネタ化とネタのベタ化、承認欲求、借金、家族崩壊、職場放棄、地元からの逃亡、先輩や友人の裏切り、満たされない性欲、不安定就労、派遣切り、ニセ者、荒らし、無視、孤独、不安・・・・。

 彼の鬱屈は心の中に溜まり続け、「なりすまし」と「ツナギ騒動」によって噴出した。マグマが限界まで溜まって噴火するように。コップの水が溢れるように。

 「引き金」が何であるかは、特に重要ではなかった。たとえ「ツナギ騒動」がなくても、別の出来事が起これば、それが「引き金」になった。

問題は「弾」の部分だ。

 しかし、「弾」の構成要素は単一のものではない。それは時間の経過とともに形成された複合的なものだった。どれか一つだけが決定的な要因ではなかった。

 加藤智大という人格と25年間のプロセス、そして現代日本社会という空間と時代性。彼は何を主体的に選択し、何を社会から強いられたのか。その境界は、極めて曖昧だ。

 加藤は、掲示板に繰り返し「いつも悪いのは俺」と書いた。

 確かに、その通りだ。

 繰り返し無責任に職場を放棄し、不満を言葉にせず行動でアピールし、大切な先輩や友人を裏切り、借金を踏み倒し、イヤなことから逃げ続けた「俺」は、「悪い」に決まっている。

 しかし、加藤のような青年に対して、過剰に鞭打つように「自己責任」を強いる社会とは何なのか。そして、加藤への共感を示す若者が多数存在する社会とは何なのか。なぜ、加藤へのシンパシーは消えないのか。なぜ無差別殺傷事件は連鎖するのか。なぜ、彼らが殺傷の対象とするのは「特定の個人」ではなく「不特定の誰か」なのか。なぜ、「誰でもよかった」のか。事件は加藤だけの問題なのか。彼のパーソナリティーにすべてを還元できるのか。 pp.224-225

 私がどうしても気にかかるのが、藤川との関係だ。(中略)なぜ、加藤は、藤川にだけ、「本音」を晒したのか。それは藤川の「言葉」がきっかけだった。「藤川さんはある意味、社長じゃないですか。うらやましいですよ。勝ち組ですよ」と語る加藤に対し、藤川は真剣に怒った。そして、自分の境遇を話し、加藤の心と向き合った。加藤は涙を流した。そこには「言葉」があった。加藤に届く「言葉」があった。「世界」と「言葉」が結びついた。これをきっかけに、加藤は「建前」を突破し、藤川に「本音」で接近した。

 この踏み出した一歩は大きかった。なぜなら、加藤は藤川の言葉によって、自己と対峙したからだ。自己を問い、自己を見つめることで、彼は他者に開かれた。それは、ほんの小さな隙間だった。しかし、彼は間違いなく「本音」を開いた。他者への可能性を回復した。

 そんな藤川から、加藤は離れていってしまった。

 なぜなんだ。

 どうして事件前に、藤川に電話一本できなかったのか。なぜ、藤川との関係の大切さに気づかなかったんだ。気づいていたのに、気づかないふりをしたのか。それとも、気づいていたことを忘却したのか。

 (中略)

 加藤は、リアルな世界のスタート時点で躓いた。やはり母という軛は大きかった。母からの問答無用の暴力と強制は、彼から言葉を奪っていった。実際、彼は作文を母から検問・矯正されることで、言葉を奪われた。

だからこそ、加藤は逆説的に言葉に敏感になった。彼が文集で発する言葉はネガティブでありながら、鋭利だった。誰かに届いてほしいという切実さが、文字から滲み出ていた。

 しかし、リアルな社会で彼の言葉を受け止めてくれる者は、ほとんどいなかった。そこでは「建前」の言葉のやり取りしか行われず、本当の言葉は誰とも交換できなかった。だから、彼は友達がいるのに孤独だった。

 加藤は、他者との対面的なコミュニケーションを軽視し「行動でアピールする」という習慣を身につけた。自分の「本音」をしっかりと言葉として伝えず、突発的な行動によって「気づかせる」というパターンを繰り返した。表層的な言葉への不信の結果だった。

 (中略)

 職場での「タテの関係」や「ヨコの関係」には、どうしても利害が関与する。すべて本音で言葉を交わしていると、職場での人間関係にひびが入る恐れがある。やはり、どうしても空気を読まなければいけない。言いたいことなんて、何でも言えるわけがない。

 だから直接的な利害を伴わない「ナナメの関係」が、社会では重要なのだ。過当にとって、藤川は仕事の同僚でありながら、利害関係があまり関与しない他者だった。駐車場の管理人も、ミリタリーショップの店員も。

しかし、そんな他者と出会える場所は、現代日本社会では限られていた。居場所を見つけろといっても、そんな場所はどこにあるのか。 pp.258-261

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