原研哉『日本のデザイン』

   

シンプルという概念は、権力と深く結びついた複雑な文様を近代の合理性が超克していく中に生まれてきたという経緯を前節で述べた。しかしながら、日本文化の美意識の真ん中あたりにある「簡素さ」は、シンプルと同じ道筋をたどって生まれてきたものではない。(…)その典型が長次郎の楽茶碗であり、また、今日の和室の源流といわれている、京都慈照寺に残されている足利義政の書院「同仁斎」である。それらは、複雑さと対峙する簡素さの中に力をたたえているが、シンプルとは本質的に異なっている。あえて言うなら「エンプティ」つまり空っぽなのである。その簡素さはかたちの合理性を探求した結果でもなければ偶然の産物でもない。「何もない」ということが意識下され、意図されている。 p.62

室町時代に確立した諸芸として、能、連歌、立花、茶の湯、築庭、書院や茶室の建築などがあげられるが、いずれも美的なオブジェクトを生み出すだけでなく、組み合わせ、制御し、活用する才能が諸芸を生き生きと走らせていく。つまり「もの」を作るのみならず「こと」を仕組み、美を顕現させる職能たちが活躍しはじめる。遁世者という言葉があるが、美を差し出してその報酬で生きるということは、どの世においても社会の常道、まっとうな生業から逸脱した存在である。これは現代も同じことだ。 pp.74-75

テクノロジーは自然と拮抗するようなものではなく、むしろ進化するほどに自然との親和性を増し、その境界を曖昧にする。どこまでが自然でどこまでが人為か分からないような融合感にこそ気を通わせるのだ。そのためには自然の贈与を素直に受け入れる建築を考えなくてはならないが、これは建築家にとっても面白い課題となるはずだ。 p.142

見渡してみるとアジアの精力的な働き手たちは西洋人のように長いバカンスをとらない。仕事に生き甲斐を見出し、むしろそこから活力と意欲を生み出しているようだ。(…)彼らが休息をとらないかというと、そうではない。彼らは仕事をしながら休むのである。仕事に隣接する知的活動を労働と考えず、充足の時間ととらえてみると、どうだろう。(…)プールで泳いだり、極めつきの大自然の中を散歩やジョギングをしたり、食事をしたりという、そのすべての瞬間に愉楽とクリエイションが共存する。 p.144

『VOGUE』の編集には筋の通った原則があった。それは、ファッションとは衣類や装身具のことではなく、人間の存在感の競いであり、交感であるという暗黙の前提のようなものだ。(…)社交場に出てくる人々の中で、ひときわ異彩を放って印象的なのは決して若くてスタイルのいい人々ではない。もはや老境も極まったような人に、老大樹が醸し出すような凄みや迫力を感じるのである。人間は偏りをもって生まれ、歪みも癖も持ち合わせて生きているが、そういうものを全部のみこんで、どっかりと開き直って生きている人々には、時代を経た大木のような迫力が備わってくる。シミを取ったり、まぶたを二重にしたり、アゴの線を整えたりするのではとうてい太刀打ちできない、人間としての強烈なオーラを発している。p.173

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