内山節 『「創造的である」ということ 上』

個人から出発して個人に帰る近代的な思考の構造

労働がいろいろな角度から、だんだん手段化し、労働それ自体を楽しむ事のできなくなってきたのが、現代なのではないでしょうか。つまり労働はつねに貶められているのです。

なぜそうなったのか。それは私には、近代的な個人の成立と関係しているように思えます。つまり近代人は、個人からものごとを考えはじめ、個人に結ばれていく思考を身につけている。そうである以上、程度の差はあっても、すべてのものを個人の手段にする傾向をもたざるをえない。そこに、エゴイスティックな手段化も生まれれば、逆に自己愛のための博愛的な手段化も生まれるのです。

私はこういう構造をよいものだとは思っていません。なぜなら、たとえば労働は労働自体に価値があり、たとえば自然は自然自体に価値があるもののはずなのに、この現代の構造のなかに入ってしまうと、労働にも自然にもそれ自体の価値はなくなってしまって、労働をとおして貢献できる自分自身に価値があり、自然を守る自分自身に価値がある、というようなことになってしまうからです。そうして、自己以外の主体が消えてしまうのです。そういう構造のなかの労働がよいとは、私には思えません。 pp.65-66

日本ではよく利己主義は悪いけれど個人主義は良いというように簡単に言う人がいますが、そう簡単にはいかないのです。あるいは個の確立は良いが利己主義は悪いなどといっても同じことです。そんなに簡単に解決のつくことなら、個人をめぐるヨーロッパ思想史の苦悩はなかったのです。

トクヴィル的にいえば、個人にすべての責任が負わされたとき、人間はひたすら我がことを考えるようになり、他者のためになることを考えているときでさえ、そういうことを考えることのできる自己に喜びをみいだすためにそうするようになって、結局自分のためにしか動かなくなるのです。とすればトクヴィルがいうように、むきだしで下品に利己主義がでてくるか、つつしみやかに、上品に、利己主義がでてくるかの違いだけだということになります。 p.90

近代的個人とは、すべてのことを個人で考え、判断し、行動しなければならない、つまり個人以外の何者でもない個人のことです。こうして自分中心にものごとを考えていくうちに、他者はすべて自分のための手段になり、自分自身を楽しむことしかできなくなっていく。すべてのことが、個人の世界のなかで、自己完結していってしまうのです。 p.107

***

『近代的個人が成立すると、結局自分のためにしか動かなくなる。すべてのものは個人のための手段となる。エゴイスティックな手段化も生まれれば、逆に自己愛のための博愛的な手段化も生まれる。むきだしで下品に利己主義がでてくるか、つつしみやかに、上品に、利己主義がでてくるかの違い。』

この話はめちゃくちゃ説得力あった。近代的個人というものにとって、あらゆるものが道具であり、手段となってしまうのは必然なことなんだろう。近代的個人にとって他者は、主人公である「私」の物語の登場人物に過ぎない。下品であり賢くなかったならば、むき出しの利己主義が他者を手段化する。もう少し賢ければ、利他的に振る舞うことによって自己利益を最大化するだろうし、もう少し自己愛が強ければ博愛的に振る舞うことによって自己愛を満たす。どれも結局、他者を世界を手段化していることにはかわりはない。

田舎のお年寄りの生き方を見ていると、近代人が失ってしまった生き方を垣間見る。「世界」と「私」は未分離だし、「他者」と「私」も未分離。世界は私の一部であり、私も世界の一部。世界を損なうことは、私を損なうことであり、世界が痛むのならば、私も痛む。

世界と私を切り離す、近代的合理主義の功績は確かに大きいのだろうけれど、それが生んだ弊害の大きさを再認識させられた。