ショウペンハウエル 読書について

自ら思索することと読書とでは精神において信じ難いほど大きなひらきがある。そのため思索向きの頭脳と読書向きの頭脳との間にある最初からのひらきは、ますます大きくなるばかりである。(…)このようなわけで多読は精神から弾力性をことごとく奪いさる。重圧を加え続けると発条は弾力を失う。つまり自分の思想というものを所有したくなければ、そのもっとも安全確実な道は暇を見つけしだい、ただちに本を手にすることである。pp.7 *** 今年はとにかく量をこなそうとやっきになって本を読んでいたのだけれど、月20-25冊ペースで読み続けて気づいたのは、今の読書の仕方では自ら思考する力は落ちるし、発売されて間もない軽い内容の本ばかりに手を出してしまって本棚は荒れる一方であるし、肝心の内容もさして記憶にも残らないし碌なことがない、ということ。おそらく教養がないという劣等感からの一時的な逃避、気休め程度の効果しか得られない。 多読に気を取られていると知らぬ間に知的付加の少ない新しい本ばかりに手を出しては、読んだ本の数だけを数えては満足するという極めてつまらない読書の仕方になりかねない。そのような読書を続けているとどんどん頭が受動的になってゆき、読書のために読書するだけでなんら行動することに結びつかない。   とあるブログの記事のなかで「出版されてから10年を経ていない本は、読む価値がない」ということばを見つけてはっとさせられたが、出版からある程度の年月を経た本をしかるべき時間をかけてじっくりと読み、内容について時間をかけてあれこれ考察するという読書の方法にどこかで改めないといけない。そうすると年間で読める本の数もある程度限定されてくるのは当然のことで、限られた時間の中でその限られた数の本を丹念に読んでいかなければならない。