内田樹 知に働けば蔵が建つ

私たちは経験的に「他人のふりをして語る」ときの方が「自分の正味の本音だけを選択的に語る」場合よりも口がくるくるよく回るということを知っている。それは言い換えれば「語る」という行為の本質にはかなっている、ということをおそらくは意味している。「語る」と「騙る」は同音異義ではなく、たぶん同音同義なのである。なるほど、他者の声にことばお託すというのが発語の本質であると。 真に内省的な人間はそれが「調子よくすらすら出てくる言葉」であればあるほど、その起源が自分のないということを知っている。 「私」を主語にして語ることにつねに「気恥ずかしさ」を覚えることのできる人間だけが、おそらくどこかで「私」に出会うことができるのである。 ***