内田樹 下流志向

弱者が弱者であるのは孤立しているからなんです。自己決定・自己責任とか、「自分探しの旅」とかいうイデオロギーに乗せられて、セーフィティネットの解体に同意し、自分のリスクを増大させていることに気づいていない。マルクスは「万国の労働者、団結せよ」と言いましたけれど、ほんとにその通りで、たいせつなのは「万国の弱者、団結せよ」ということなんです。 ポスト産業社会化とともに、サラリーマンにとっての最後の共同体的よりどころだった企業も解体して、とうとう「中間的共同体」が何もなくなってしまった。まるはだかにされて、正味の個体の生存能力をフル動員して生き延びるしかない、リアル・ファイトの闘技場に私たちは放り出されたのである。文句を言っても始まらない。「そういうのが、いい」とみんなが言ったからそうなったのである。「夫らしく妻らしくなんて役割演技はたくさんだ」「親の介護なんかしたくない」「子どもの面倒なんかみたくない」「隣の家とのつきあいなんて鬱陶しい」「会社の同僚の顔なんか終業後に見たくない」「オレはやりたいようにやる」「あたしの人生なんだからほっといてよ」…ということをみなさんがおっしゃったので、「こういうこと」になったわけである。
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世間というものがある種の暴力性を帯びて僕らに迫ってくるのは、その中間共同体が壊れかけ、世間というものが極めて狭い意味で用いられるようになったからであろう。田舎にいくと住所ごとに組という単位が決まっていて、その組の集同士での相互扶助的関係が残っていたり、親戚同士の集まりが年に数回行われていたりするけれど、近代化都市化の影響を受けるとそのような中間共同体もどんどん解体され個人はアトム化してゆく。アトム化してゆき、核家族と会社や学校くらいしか所属する共同体がなくなってしまうと、その共同体内でのしきたりや決まり事、空気といったものが個人に対して支配的な影響力を持つようになり、その影響に対して個人は逃げ場がなくなってしまう。中間共同体という付き合いがいかにも面倒くさそうな中間共同体を自分たちで好んで解体していって自由になったつもりが、その解体がゆえにある単一の共同体の価値観が支配的になり、個人を脅かすようになってしまった。世間的なしがらみに嫌気がさして世間的なしがらみをこわそうとしていった結果、より世間的なしがらみを感じるようになってしまうという皮肉。面倒くさいと思っていた中間共同体は日常、非日常での互助の関係であると同時に、多様な共同体のあり方を担保していて、その知恵を失ってしまうことの危険性に日本はやっと気づき始めたのではないか。