レイ・オールデンバーグ『サードプレイス』

序章

サードプレイスの一番大切な機能は、近隣住民を団結させる機能だ。多くのコミュニティで、郵便局がこの機能をよく果たしていたのは、誰もがそこに郵便受けをもっていた時代であり、誰もが徒歩か車でそこまで行かなければならなかった時代だったし、当時は法律によって二四時間営業だった。椅子こそ置いてなかったが、郵便局は人びとが会ってー少なくとも挨拶ていどはー言葉を交わす場所だった。 p.17

サードプレイスの常連は、血縁者や旧友にそうするように、「お互いのためになることをする」。もう要らなくなったものをあげる。まだ必要なものは貸す。「仲間の一人」が苦難に見舞われたら、それを和らげるために自分のできることをする。誰かが二日ばかり「姿を見せ」なければ、誰かが様子を見に行く。 p.24

イギリスで、北欧で、そしてサウジアラビアで、なぜ歴史上たびたびコーヒーハウスが為政者から攻撃されたかは理解に難くない。人びとが集まり、そして、議論の途中でしばしば国の統治者のあらさがしをした場所は、ほかならぬコーヒーハウスだったのである。 p.28

第一章 アメリカにおける場所の問題

自動車依存型の郊外は、個人の生活を細分化する結果をもたらした。ある観察者が書いているとおり、「人はある場所で働き、別の場所で眠り、ほかのどこかで買い物をし、楽しみや仲間たちを見つかるところでみつけ、これらのどの場所にも関心を払わない」。典型的な郊外住宅は、居住者がよそに転居する際も出て行きやすい。自分のいちばん大切なものは、引越しのときにたずさえて行けばいい。地元の居酒屋や街角の売店で別れを惜しむこともない。だいいち、地元の居酒屋や街角の売店なんて存在しないのだから。実のところ分譲地には、居住者を引き留める力よりも、出て行く気にさせる力の方が強く働いていることが多い。なぜなら、家族や個人を生涯ずっと見守る姿勢が、住宅にも地域住民にもそなわっていないからだ。どこも特定の規模、収入、年齢の家族向けに設計されている。居住者が根を下ろす場所はおろか、その機会さえほとんど意識されていないのだ。 p.42

アメリカ人は理想都市の代わりに「夢の住宅」とういう幻想を抱いたのだ。(…)自分の住宅が十分に広く、十分に楽しく、十分に立派でありさえすれば、それがコミュニティの代わりになっていると思っているふしがある。p.46

アメリカの家庭は、中流階級になって外の世界の恐怖や混乱に何らかの対処をする余裕ができると、たちまち周囲に塀を立てて閉じこもるので、「フランスやドイツの場合とちがって、アメリカでは、都会の中流階級はカフェや宴会場といった公共の社会生活を避けた」。(…)現代の都市開発が、かつて都市を成り立たせていた本質的な関係を崩壊してしまい、結果として「家庭の役割が肥大細胞のように過剰に膨らんだ」 p.47

わたしたちの活動はむしろ自宅と職場に限定され、この二つの世界が優先されるようになった。庶民は「胎内」と「競争社会」のあいだを判で押したように往復し、そんな毎日からは、例の「何もかも忘れてのんびりしたい」願望が生まれやすい。 p.49

サードプレイスというのは、家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場を提供する、さまざまな公共の場所の総称である。 p.59

第二章 サードプレイスの特徴

コミュニティが、恵まれない人びとを対等な人間として受け入れる環境と機会を提供できるときには、貧しさの苦痛さえ、おおかた消えてなくなる。純粋な社交は、勝ち組も負け組も肯定し、間違いなく双方にとって慰めになる。家の格式を保つことや、会社経営者の独裁的な精神構造とはちがって、サードプレイスは、気分を盛り上げる形での「下向き」なつきあいの価値を認め、その実現手段を与えてくれるのだ。 p.72

物理的構造としてのサードプレイスは、総じて地味だ。(…)サードプレイスを特徴づける飾り気のなさには、いくつかの要因がある。(…)新しい場所は、建造目的との結びつきがより強い。最大限の利益が期待され、しかもそれをもたらすのは、うだうだ長居をする集団ではない。それに、新しい建物は、大勢の通りすがりの客を取り込めそうな一等地に出現する傾向がある。しかも、たまり場にさせない方針とそれを実行する従業員をそなえたチェーン店であることが多い。(…)フランチャイズ店のような派手で明るい外観ではないので、サードプレイスは、大勢のよそ者や通りすがりの客の目を引かない。中流階級好みの清潔さや現代性に欠ける。(…)地味さ、とりわけサードプレイス内部の地味さは、そこに集う人びとの虚飾を取り除く役目も果たす。衒いのない内装は、人を平等に扱うことや見栄を捨てることに通じ、それらを後押しする。 pp.88-89

第四章 もっと良いこと

十八世紀、スウェーデン国王はコーヒーの飲用を禁じた。役人達はコーヒーハウスを「不満分子たちが氾濫の計画を練る政権転覆のアジト」だと確信した。(…)自由な集会は、最も自発的かつ日常的なレベルで起こるものとして(…)独裁政権が忌み嫌うものである。サードプレイスは、全体主義社会で実行されるたぐいの政治支配に抗うだけでなく、民主主義の政治プロセスにとって必要不可欠でもある。 p.133

第八章 フランスのカフェ

アメリカ人は昔から西欧文明の一対の目標とされている「進歩」と「個人の完成」が、モノやサービスの消費をとおして達成されるものと信じている。わたしたちの多くは、自分個人としては、やはりそのような信念を抱いていることを否定するだろうが、ほとんどの人が、あたかもそれを信じているかのように行動する。わたしたちは消費するために働き、成功や力強さ、性的魅力、あるいはたんなる充足を感じるために、必要以上に消費する。わたしたちの文化は、わたしたちがこのように感じ、行動することを求めているのだ。

第十章 古典的なコーヒーハウス

政治、社交、文化生活の中心として二百年ちかく栄華を誇ったあと、イギリスのコーヒーハウスは表舞台から消え去った。十九世紀なかばには、もはやイギリス人の生活に何の影響もおよぼさなくなっていた。その消滅の原因としてよくあげられるのは、郵便の戸別配達や日刊新聞の誕生、イギリスの新興の第四階級を占有したがる欲深いコーヒーハウス経営者の出現など、状況が変わったということである。しかしながら、コーヒーハウスは基本的に人づきあいの一つのかたちであり、好ましいものであって、そのような交友の必要性が消え去ったとはとうてい思えない。 p.312

第十一章 厳しい環境

都市計画と建築業にかんする知識人、つまり著述家なら、もっと広くてすぐれた視野をもっていると思うかもしれない。だがこのあたりに期待できることはほとんど見あたらない。わたしはこの主題に関連する大量の本や手引書に目をとおしたが、ラウンジ、居酒屋、バー、酒場への言及はひとつも見つからなかった。ドーナツ屋、喫茶店、ビリヤード場、ビンゴホール、クラブ、友愛組合や秘密結社の集会場、青少年の娯楽センターについても同じことが言えるだろう。これらの場所は、明らかに、都市計画家の思考のどこにも属していないのだ。 p.332

アメリカ文化は「ぼうっとすること」に時間を使うのをーそうする場所が制度的に排除されつつあるときでさえー軽蔑する。人びとが、浜辺に寝そべることを「肌で焼く」という言葉で正当化し、公園でぶらぶら過ごすことを「人間観察」と称して正当化せずにはいられない世界では不思議でも何でもないのだが、わたしたちアメリカ人は(…)、それらに何らかの高萬な目的をしみ込ませることが必要だと思っている。

しかしコミュニティに不可欠な、社交や「目的のない」触れ合いを広く追求することが、現実にはますます脅かされている。 p.347

第十二章 男女とサードプレイス

ほとんどのサードプレイスは男女別になっている。異性を立ち入り禁止にしている場所もあれば、男女の分離が「程度の問題」の場所もある。たいていの場合、これらの楽しくて活気に満ちたくつろぎの施設は、男女のあいだに垣根を立て、旧来のやりかたを踏襲し、社交生活を男の世界と女の世界に分けている。 p.393

第十三章 若者を締め出すということ

(サードプレイス的なコミュニティとは対照的に)「個人コミュニティ」「解放されたコミュニティ」あるいは「ネットワーク」など、さまざまな呼び名で知られているコミュニティがある。それは場所という観点から定義されるのではなく、一個人のつながりの蓄積によって定義される。(…)わたしたちはそれぞれ「個人コミュニティ」をもっている。(…)彼らの興味と人間関係は、地元の隣近の人びとを超えている。「ネットワーカー」は地元の噂話や偏見から「解放され」、ただ地理的に近いことよりもっと合理的かつ個人的な根拠で「自由」に友だちを選ぶ。

ネットワークは、現在理解され推進されているかぎり、反子どもだ。(…)真っ先に気づくかもしれないのは、このように理解されたコミュニティが、はなはだしいエリート主義であることだ。ネットワークを最も利用できるのは、若者と中年、学歴の高い人、裕福な人、新型車を所有している人、家庭の義務から最も解放されている人である。 p.419

第十四章 めざすは、よりよい時代・・・と場所

自己啓発本は、個人主義と個人の自由というーアメリカでは大いに賞賛されているが、ほとんど理解されていないー概念の誤用の一員となっている。わたしたちが最近手に入れた自由の大半は、ゲイル・フラートンが言うように、「切断の自由」なのだ。彼女は詳しく述べている。

祖先を育むとともに彼らにアイデンティティ意識を授けた第一次集団から切り離されて、大多数のアメリカ人は、自分が何者か、何者であるべきかを教えてくれる誰かを探し求めている。財力と教養の水準しだいで、彼らは「人格」の形成を約束する講座に登録するかもしれないし、何らかのかたちの心理療法に参加するかもしれない。しかし、ほとんどの人は、自分自身を知ろうと努めるよりは、意にかなうレッテルか、他者にたいする支配力を得る秘訣を求めている。 p.459

解説

レイ・オールデンバーグの『サードプレイス』では、アメリカのこういった荒涼とした都市空間および乏しい飲食文化に焦点を当てながら、学ぶべき反例としてヨーロッパや第二次大戦以前のアメリカで見られる地元に根付いた、小じんまりした人間中心の社交の場を挙げている。そのような場所を総じて"The Third Place"と呼んでいるのである。(…)いつでもふらっと立ち寄れるような、一見、何気なさそうな場所が、どれほど「人間らしい社会」にとって必要不可欠なものであるかが、圧倒的な説得力をもって論じられている。 

第二次大戦後のアメリカにおけるマイカーの普及と郊外の拡大、それに伴う都心部の空洞化、そして一九八〇年代のバブル経済以降、いっそうきわだつ個人住宅の「豪邸化」が進めば進むほど、サードプレイスと呼べるような人びとの公共の居場所が自然に消えていく。

わたしたちの社会では、余暇が消費へと歪曲されてしまった。p.52

(…)それに対してサードプレイスというのは、営利目的を持ちながらも、人間を単なる〈顧客〉として扱わず、〈個人〉として大事にする場所であると指摘する。

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