鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ』

私たちは常に自分がどう見られているのかを意識しながら、その期待に応えられるかどうかを判断しているわけではない。むしろ「この場面であれば人は一般的にどう振る舞うか」といったことをいちいち考えなくても適切な範囲での振る舞いを選択できているからこそ、支障なく日常生活を送ることができるのだ。逆に言えば、「役割を引き受けるかどうか」という選択が問題となるのは、適切な振る舞いを選択したつもりなのに期待した反応が得られなかったり、そもそもどのように振る舞っていいのか確信がもてなかったりするときであるはずだ。それゆえ、自己の振る舞いの適切さについて考慮し、行動を修正するという再帰的モニタリングのはたらきは、常に「これで正しいのだろうか?」という不安と一体のものとして現れる。 p.107 デート中に携帯電話を開いたり触ったりすることが相手にとって不快なのは、どこか自分がないがしろにされている感覚があるからだ。その感覚はまったくもって正しい。だが、その前提は必ずしも正しいものではなくなっている。つまり、携帯電話の画面の向こうにいる相手よりも、目の前にいる私の方が、近くにいる以上は親密で、あなたにとって大事な人物であるはずだという期待は、相手には共有されないかもしれないのだ。 むしろ現実には私たちは、目の前にいる恋人から向けられる期待と、ウェブ上でコミュニケーションしている相手から向けられる期待を等価なものと捉え、その優先順位を判断しながら、どのように振る舞えばいいのかを決定している。(…)いまや現実空間はメディアを通じて複数の期待が寄せられる多孔的なものになっており、また同じ空間にいる人どうしがその場所の意味を共有せずに共在するという点で、空間的現実の非特権化がおきているのである。 pp.136-137 ***