岡田斗司夫『評価経済社会』

「工場での労働を想定して、公共教育は基礎的な読み書き算数と歴史を少しずつ教えた。だがこれは、いわば『表のカリキュラム』である。その裏には、はるかに大切な裏のカリキュラムが隠されている。その内容は三つ。今でも産業主導の国では守られている。 時間を守ること 命令に従順なこと 反復作業を嫌がらないこと この三つが、流れ作業を前提とした工場労働者に求められている資質だ。 p.127 合理的な判断を下すためにはその根拠となる知識が必要になります。が、これだけ社会の構成要素が高度になり、かつ細分化されてしまうと、それを全部理解して自分で判断しろというのはほぼ不可能です。この点、将棋の羽生善治名人の言葉が傾聴に値します。あるインタビューで羽生名人は「将棋の棋譜データベースの普及により、将棋の棋譜情報は総量において人間が覚えられる限界を超えた」と語りました。これからはその膨大な情報の中からポイントとなるものを押さえていくしかない、ということを指摘していました。 p.241 「自分がどうあるべきか決めなくちゃいけない。よく分からないけど、とりあえず決めてみる。決めても、そうはなれない。そうなるように頑張らなくちゃいけないのか、こうあるべき自分を決め直さなきゃ行けないのか、分からない。分からないけど、こうあるべき自分だけは決めなくちゃ。自分の意見は持たなくちゃ」これでは、自分はダメ人間と思う以外、未知はありません。不幸の道まっしぐらです。「自分の意見をもたなくちゃ」という考え方から解放されさえしたら、こんな悩みはなくなるのです。 p.245 *** 貨幣経済社会から評価経済社会への移行、つまり各人がどのようなモノをもっているかより、どのようなイメージをもたれているかを重視するパラダイムへの移行は、ブランド戦略はじめ様々な場所で既に起きていてもったいぶって予言するほどのことでもない気がしたけれど、脇道の話、特に古代中世近世近代と各時代ごとにどのようなパラダイムが存在しどのように移行していったかなどの歴史認識の話がとても興味深い。 近代では各人が情報を取捨選択して、各人が各人なりの意見を持ち自我を確立しようとしてきたのだけれど、そのような強い近代的自我というものは幻想であってそのようなものの確立を志せば挫折するのは目に見えている。強い自我を確立する必要なんてないということは、河合隼雄三浦雅士岸田秀柴田元幸内田樹寺山修司中沢新一も、自分が影響を受けた人皆が同じことを言っているのだけれど、おそらく彼らは近代的自我の確立に一時は躍起になり、後にその必要がないことに気づいた人たちなんだろう。パラダイムは時代ごとに移ろいゆくものであって、普遍的に正しいパラダイムなんて存在しない。一見強い自我を確立しているように見える人も、多くの場合においてその時代においての多数派のパラダイムを絶対視して、自分がそのパラダイムのなかでの相対的優位の立場にいることに誇りをもっているだけのことにすぎない。あるパラダイムを絶対視して、その方向へと自我をひとつに統合していこうとする必要なんてない。