鴻上尚史 空気と世間

西洋における神が秩序を保つための抑止力であり、また弱い個人にとっての支えであるのと同じように、日本における世間も規範を守らない人間を監視する抑止力であり、また相互扶助的な互酬関係を約束するセーフィティーネットであった。ところが都市化・グローバル化が加速し個人主義が広まるにつれ世間が中途半端に弱まり、弱い個人を支える基盤を失いつつある。
高度成長期には会社という世間でつまはじきにされなければ終身雇用、年功序列というシステムにのっかりながら一生涯をやり過ごすことができた。植木等の言うようにサラリーマンとは気楽な家業であったのかもしれない。ところが先が見えない縮小の時代を迎え、また個人主義的傾向のなかセーフィティーネットとしての世間は力を失いつつある。そのような弱まった世間の中にあっても、日本人は同じ時間を過ごすことを重視する。だらだらであっても長時間労働し、休暇は同じタイミングでわずかな期間だけとり、口をひらけばどれだけ大変かを語って勤勉にやっていることを主張する。時間意識だけでなく、年功序列・互酬関係・仮想敵の設定など世間で生きるには様々な作法があるが、それらは全て世間からつまはじきにされないための予防線であり、危機管理の方法であると言える。   そのような弱まった世間でありながら人々が世間にしがみつこうとするのは、世間というセーフィティーネットが壊れ始めたからこそ、逆説的にその壊れかけの世間の重要さが増してくるから。なんとか空気=多数派を探しては世間からつまはじきになることを避け、自らの安全を担保しようとする。   
世間のがんじがらめの不自由さから逃れたいのならば、自分が所属している共同体がどのようなものなのか知り、また複数の共同体に所属しなければならない。世間を常に相対化し、また世間と社会を振り子のように行き来しなが楽しみを見つけていく生き方。 ***