藤田正勝「親鸞の「悪」――末法の世における救い」『日本文化をよむ――5つのキーワード』

 

1. 末法の世に

末法思想:釈迦が入滅してから、その教えが徐々に衰退していくという思想

正法の時代:教えとその実践が残る

像法の時代:正しい修行が成されず誰も悟りを開けない

末法の時代:教えは残るが、行(実践)も証(その結果としての悟り)もなくなる

法然(1133-1212)「当今は末法にして現にこれ五濁悪世なり」

五濁悪世(ごじょくあくせ):この世が、人々のあさましさや、人間の資質の低下、誤った思想の流布、時代の汚れなど、五つの汚れで満ちること

→この悪世では自力の修行によって悟りは得られず、ただ称名念仏し、阿弥陀仏の力によって往生を願うほかない(鎌倉時代の人々の根底に流れる思想)

道元(1200-1253)「無常迅速、生死(しょうじ)事大」

この世の物事はすべて無常で、瞬く間に過ぎ去っていく、迷いの世界を果てしなくめぐりさまようことから離れ、さとりを得ることこそ、もっとも重大な事柄である

親鸞道元の自然

道元而今(しきん)の山水は、古仏の道現成(どうげんじょう)なり」

→いま・ここ、目の前にある山水は、仏の教えがそのまま現実になり、形を現したものである

親鸞                                           

→煩悩に惑わされ、迷いの世界を脱することのできない衆生、戦乱や飢饉に苦しみ貧困にあえぐ農民や商人に目を向ける 

 

2. 徹底した悪の自覚

悪人正機:悪人こそ救いの対象である

→深い罪悪を身に背負い、仏になる能力も素質ももたない「悪人」こそ救おうと阿弥陀仏は願を起こした。阿弥陀仏にすべてを委ねることこそ、往生のための正しい因になる。

われらが皆、石や瓦であり、われらすべてに仏の慈悲が及ぶ

煩悩具足の凡夫

「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の太山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを楽しまざる…」

→悲しいことに私は愛欲の広い海に沈みこみ、名利(名声や利益)の大きな山に迷いこんで、正定聚(しょうじょうじゅ)(仏となることが定まった人々)のなかに入ることを喜ばないし、さとりに近づくことも楽しまない…

浄土真宗に帰すれども、真実の心(しん)はありがたし 虚仮(こけ)不実のわが身にて 清浄(しょうじょう)の心もさらになし」

→浄土真実の教えに帰依したが、真実の心をもつことはほとんどありえない。我が身はみせかけやうそ、いつわりでいっぱいであり、清浄な心は少しもない。(親鸞八五歳)

愚禿(ぐとく)親鸞親鸞の自称

禿(かぶろ):ボウズでも髷でもないざんばら髪                      

後鳥羽院の時代に流罪となり、「非僧非俗」の自らの立場を「禿」と表現            

みせかけやうそ、いつわりで満たされた自己を「愚」と表現                  

→単なるへりくだりではなく、どこまでも深まっていく悪の自覚と絶望

 

3. 逆説としての救い

悪の自覚から救いへ

「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」

→自分こそむさぼりの心や愛憎に突き動かされ、自らを恃(たの)む心に縛られているという自覚

「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」

→罪業を背負い、徹底して懺悔せざるをえない自分であるにも拘わらず、そのうえにも光はみちてきて包まれる。その「かたじけなさ」。悪を徹底して自覚することが、同時に救いの次元を切り開く。 救いに値しないからこそ、救いを自ら手にする力をもたないからこそ、救いがさしのべられる逆説

淤泥華(おでいけ)の喩え:蓮の花

「譬へば高原の陸地(ろくち)には蓮華を生ぜず、卑湿(ひしつ)の淤泥にいまし蓮華を生ず」

→煩悩という汚泥のなかにのみ、仏法は芽を出し、花を付ける。心のなかに生まれてくる悪を正面から見つめ、自己の不真実を自覚し、懺悔するものにこそ、救いの光が差し込み、光によって包まれていることが意識される。

歓喜と懺悔

清らかな花が咲いたとしても、それはなお汚泥のなかにある。汚泥は花の存在条件である。

純粋なる歓喜は存在せず、歓喜は懺悔とともにあり、懺悔は歓喜とともにある。

「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏(うろ)の穢身(えしん)はかはらねど 心は浄土にすみ遊ぶ」

阿弥陀仏の願を聞いてから、われらは生死の世界に迷う人間ではなくなった。煩悩で汚れていることは変わらないが、心は浄土に住み遊ぶ

救いは、汚れた身であることと、汚れを脱することが一つに結びついたところに成立する

生死と涅槃、有漏と無漏(煩悩がないこと)、歓喜と懺悔はいわば一つであり、懺悔があってはじめて歓喜があり得、歓喜もまた懺悔によって裏打ちされる。繰り返し懺悔へと投げ返され、それを通してはじめて歓喜歓喜でありうる

涅槃や救いはそれ自体、抽象的に求められるものではなく、生死の世界にこそ求められるとした点に、親鸞道元に代表される鎌倉仏教の特徴がある。