近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』にみる宗教的行為としての「片づけ」

 

 サンマーク出版の本を何冊か読んでたら、『人生がときめく片づけの魔法』についてむかし書いた文章思い出したので載せてみる。こんまりさんの本の下手なまとめみたいなものだけど。現代社会と宗教のレポート課題。

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 ロランバルトが日本に滞在しとある会社の工場の視察をした際、従業員が工場の機械に名前をつけ、機械を名前で呼んでいる様子を見、日本が先進国でありながらアニミズムがはっきりとした形で残っている国であるということに驚いたという話が講義の中でされていたが、本レポートでは、現代社会においても日本人がいかに身の回りにあるあらゆるモノの中にも霊的なる存在を見、モノと人間の関係性、あるいはモノとモノとの関係性というものを重んじているのかを、近藤麻理恵の著書『人生がときめく片づけの魔法』を例に見てゆきたい。

・『人生がときめく片づけの魔法』とは

 2011年に発売された近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)は片づけについての考えをまとめた、一生活者による片付け本であるにも拘らず、100万部を超えるベストセラーとなり現在では続編も出版されている。また、出版活動だけでなく近藤は「片づけコンサルタント」としてレッスン事業や講演会を行い、メディアにも頻繁に登場してはその片づけ方法を伝授しており、「片づけブーム」は今やモノ余りの時代にモノとの関わり方を改めて問い直すひとつの社会現象となっているとさえいえる。

 彼女の著書『人生がときめく片づけの魔法』の特徴は、片付けのノウハウを伝えるだけでなくに留まらず、彼女の言うところの「片付けマインド」なるものを身につけさせようとしている点にあり、その「片づけマインド」とは、自分の身の回りに存在するモノに霊魂が宿っていることを認め、モノと自分の関係を再構築しようとする、いわば「宗教的」なる思考様式である。

・「ときめく」とはなにか

 近藤は片づけを日常的なものではなく「祭り」的なものであると位置づけ、短期に、完璧に、「捨てる」ということを強調する。そしてその先に「人生がときめく」ような「理想の暮らし」があることを想像させる。そのためにとにかく所有物を可能な限り手放すことを求めるのだが、その捨てるかどうかの判断基準は、触った瞬間に「ときめく」かどうかの一点であるという。

 この「ときめく」とはいったいどのような状態であろうか。彼女は片づけを「モノを通して自分と対話する作業」であるといい、片づけをする際には、瞑想状態とまではいかないまでも、自分と静かに向き合う感覚になっていくことがあるという。モノをひとつひとつ触ってときめくかどうかを確かめ、ていねいにモノと向き合いながら関係を保つべきか断つべきか瞬時に判断する行為は、 非常に集中力を要する自分と向き合う作業であるらしく、彼女は片づけは「滝に打たれる感覚」に近いと言う。そのように自分と向き合い、モノと向き合った結果、その関係に感謝しこれからも続けていきたいと願い心が躍るような状態となることが「ときめく」ことであり、この「ときめく」モノに囲まれて生活することによって、人生に魔法がかかり生きていく自信と感謝の思いが生まれるとさえ彼女は断言する。

・関係を片づける行為としての「捨てる」

 近藤は片づけの第一歩は「捨てるを終わらせる」ことであると言うが、「捨てる」作業にあたって、近藤は思考よりも直感を重視する。とにかく一度取り出して触ってみて「ときめく」かどうか。「ときめく」ものは収納し、「ときめかない」モノは即廃棄する。グレーゾーンである「ときめかないけど、捨てられないモノ」に対しては、そのままですまさずにとことんそのモノと向き合うことを問い、なぜ自分はそれを持っているのか、それが自分のところにやってきたところにどのような意味があったのか、「そのモノが持つ本当の役割」をあらためて考え直すことを勧める。そのうえで、役目を既に終えていることに気づいたものに対しては、感謝して手放すことにより、初めてモノとの関係に「片をつける」ことができるという。

・関係を維持する行為としての「収納」

 近藤による片づけ指導、モノとの関係の再定義は、捨てることだけに留まらない。衣類を「たたむ」という行為ひとつをとっても、服を小さく折り曲げ、衣類を綺麗に多く収納するというだけのものに留まらず、自分の手を使って洋服に触ってあてることで、「洋服にエネルギーを注ぐ」ことに本当の価値があるという。手をつないだり、頭をなでたり、抱きしめたり、親子のスキンシップが子どもの情緒を安定させる効果があるように、衣類においても持ち主の手によって触って整えられることは心地よく、エネルギーが注がれる行為なのだという。ストッキングをむすぶことや、靴下を裏返してまとめるなんてもってのほかであり、そのような行為は「足と靴の間でムレと摩擦に耐え、持ち主の足を甲斐甲斐しく包み続ける靴下のやっとの休息の時間に再度の緊張を強いる暴力的な行為」なのだという。また、たたまれることよりもかけられることを喜びそうなモノに対しては、ハンガーにかけて収納し、かつ同じカテゴリーのモノは隣り合わせにしてまとめてかけることを勧める。ここでも「風を通すとひらひら揺れてうれしそうな感じ」「カチっとしていて折り曲げるのを拒否する」「自分と同じタイプの人といっしょにいると無条件に安心してしまう」などというような身体的比喩表現を近藤は多用する。

 このような感覚はその他のモノにおいても同様である。たとえばバッグに関して、バッグは毎日空にするのが基本であり、次の日同じモノを使うからといって一晩モノを入れっぱなしにしておくことは、「人間にとって寝ている間に胃袋に食べ物がぎっしり詰められていることと同じ」であるという。ブラジャーと財布に至っては「おブラ様」「お財布様」と呼ぶほどに恭しく扱うことを求め、ハンカチで包んで水晶と一緒に小箱に詰め、引き出しの一角に納めて「おやすみなさいませ」と挨拶をするほどに、別格の敬意と丁寧さをもって取り扱うことが必要であるという。ここまでくると、もはや日常生活をおくる上での利便性の観点だけではもはや説明がつかないほど手間がかかるものである。モノの立場にたって考えた方が、モノが綺麗な状態で長持ちしてくれるからという功利的な観点からではなく、「そうしたほうがモノ自体が喜ぶから」と、近藤は完全にモノの立場で物事を捉え、モノの立場であるべき片付けのあり様を考える。

・奉仕してくれる存在としての「モノ」

 さらには近藤は「モノをねぎらう」ことを何よりも大切にする。近藤は実際の生活の中でも、靴、衣類、小物、植物あらゆるものに声をかけ、日頃の感謝を述べると言う。私たちが意識していなくても、モノは本当に毎日、持ち主を支えるためにそれぞれの役割を全うしており、一生懸命私たちのために働いてくれているのだから、持ちもの一つひとつに対して、その日一日、自分を支えてくれたことにちゃんと感謝するべきであり、毎日は無理でもたまにはねぎらってあげることが大事であるという。彼女にとって「モノ」は、単なる実用的な「モノ」ではなく、私たちのために毎日献身的に奉仕してくれている「モノ」(存在)なのであり、「モノ」が毎日奉仕してくれているのと同じように、私たちも「モノ」に対して感謝し、奉仕していくことが必要だと教える。

 「片づけをすると人生がドラマチックに変わる。それはもう100%と言っていいくらい、片づけの魔法が人生に及ぼす影響は絶大だ」と近藤は断言する。片づけによってモノとの関係を見直す、モノとの関係を見直すことはひいては人との関係を見直すことでもあり、それによって自分のおかれている環境が本当に大好きになり、素晴らしいものに囲まれて生きていることを実感し、自然と自信と感謝の思いが湧き、人によっては体型すらも変わり、人生が好転していくという。ただこのような実益も近藤からすればただの副産物に過ぎず、なによりもまず「モノ」への敬意がはじめになくてはならないのである。

・宗教的行為としての「片づけ」

 近藤にとって「片付け」とは、「モノ」の内に宿る霊性を認め「モノ」本来のあるべくあり様を探るものであると同時に、「モノ」との関係性を見直すことを通じて、自己の内面のあるべくあり様についても探求してゆく行為でもある。

 彼女曰く、捨てられない原因を突き詰めていくと二つしかなく、それは「過去に対する執着」と「未来に対する不安」のどちらかであるという。この二つに囚われるとモノが捨てられないため、「今、自分にとって何が必要か。何があれば満たされるか。何を求めているのか」を明らかにする必要があるという。自分にとって必要なモノが見えていないと、ますます不必要なモノを増やしてしまい、物理的にも精神的にもどんどんいらないモノに埋もれていってしまう。それゆえ自分にとって必要最小限なモノの量、彼女のいうところの「カチっとポイント」を把握し、それ以上モノを増やさないことが大切だというである。

 また、「祭り」的なものという表現にもあらわれているように、彼女にとっての「片付け」は明らかに非日常的、儀式的なる行為である。他人の「おうち」の片づけをする際も、家の前で黙して立ち、簡単な自己紹介とお祈りをするという儀式を行ったのちに片づけを行うという。近藤にとって片づけは「人」と「モノ」の関係を見つめ直す行為であるだけでなく、「人」と「モノ」と「おうち」のバランスをとる行為、大仰に言えば「おうち」というミクロコスモスに秩序をもたらす行為なのであり、いわば一つの神事であるのだと言えよう。実際、彼女は5年間ほど巫女として神社につとめていた経験があり、彼女の片づけの裏テーマは「お部屋を神社のような空間にすること」であるのだという。居心地のいい家、いるだけで気持よくなる家、なぜかリラックスできる家、それは突き詰めて言えばある種の霊性の涵養の場であり、それは彼女にとって「神社のような空間」なのであろう。

・日本人と「片付けマインド」

「すべてのモノはあなたの役にたちたいと思っている」

「モノは捨てられて燃やされたとしても、あなたの役に立ちたいというエネルギーは残る」

 近藤は「モノ」の内に宿る魂の存在を信じて疑わない。さらにいえば「モノ」は成長するとさえ考えている。彼女曰く、「モノ」の魅力の要因は三つであり、モノ自体の美しさがどれくらいあるか(先天的な魅力)、モノにどれくらい愛情が注がれてきたか(後天的な魅力)、モノとしてどれくらい歴史や貫禄があるか(経験値)であるという。美術館におかれているモノは、たくさんの人に大切なモノとして敬われ、そして、多くの人の視線を浴びつづけたからこそ、美術品・工芸品として洗練されたモノに育ったのであるし、ただの茶碗でも主人に大切にされたモノは強力な魅力を持つという。人に大事にされ、愛されてきたモノには、ある種の気品と風格が自然と宿るというのである。

 このような彼女の「モノ」の魂に対する信仰は、「信仰」や「宗教」として対象化するのがバカらしくなるほど、彼女にとって自然なことであり、当然なことのように見える。彼女のいうところの「片付けマインド」は、衛生的な近代空間の実現を目指すものとは明らかに異なる類のものであり、非科学的とすら言うこともできようが、それにも拘らず近藤のこの「片付けマインド」は広く日本人に受け入れられた。

 このような現象が起きたのは、近藤の「片付けマインド」が彼女オリジナルの新しい考えでありつつも、もともと日本人にとって馴染みやすい考えであり、伝統的な価値が現代的な姿で再度登場してきたためであると考えるのが自然であろう。事実、近藤の「片づけマインド」は、「足るを知る」といったような禅仏教的な教えと通ずる点も多く、このような考えは日本人の生活に根付いていたはずのものでありつつも時代の変遷とともに忘れかけてしまっていた思考習慣でもあった。成長の時代が一段落し次の社会のあり方を模索している中、このようなかたちで近藤がモノとの関係の問い直しを呼びかけ、それが広く日本人に受け入れられたことは、近代が見落としてきた価値を再考する動きの例として見ることもできるのではないだろうか。

参考文献

近藤麻里恵『人生がときめく片づけの魔法』、サンマーク出版、2011

近藤麻里恵『人生がときめく片づけの魔法2』、サンマーク出版、2012