人類を脅かすリスクの優先順位づけ

170221 ミニレポート

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 人類を脅かす様々なリスクに対処するにあたり、考えられるすべてのリスクに対処することはコストが莫大なものとなるため、なんらかのかたちでリスクに優先順位をつけ優先順位の高い順に対処していくことが必要となる。それぞれの災害リスクの大きさも、どの地域を対象とするのかによって変化するであろうが、本稿では可能な限りシンプルなかたちでリスク評価を行うために、地球全体をひとつの利害共有者としてみなしたい。

・対策の費用対効果の算出

 人類を脅かすリスクの優先順位をつけるにあたり、最もシンプルな手法はその対策の費用対効果を考え、費用対効果が高い順に対処していく手法である。今回は災害対策の費用対効果を考えるにあたり、(1)損失の期待値[$/year]を求めたのち、(2)費用対効果[-]を求めるという手順で考えてみたい。

(1)損失の期待値[$/year]を求める

 まずはじめに為されることは、単位年あたりの損失の期待値を求めることである。ここでは損失をいかなるかたちで定義するかが問題となるが、真っ先に思いつくのは経済的損失と人命損失の二つであり、それらは以下のように求められる。

・経済的損失の期待値[$/year]=予想損失額[$]/発生頻度[year]

・死者数の期待値[人/year]=予想死者数[人]/発生頻度[year]

 しかしこの場合、経済的損失と人命損失の二つの期待値が出てしまうため、優先順位付けには適さない。リスク評価のコストベネフィット分析においては、一般に人命コストを金銭換算することも多く(一般には200万$程度)、仮にそのことを認めるのであれば、上記二つの期待値は以下へと一本化される。 

・損失の期待値[$/year]=予想損失額[$]/発生頻度[year]

 

(2)対策の費用対効果[-]を算出する

 次に災害対策の費用対効果を算出し、それが高い順に優先順位をつけていくが、一般に災害における対策の費用対効果は以下のようなかたちで見積もられる。

・対策の費用対効果[-]=対策によるベネフィット(軽減される損失)[$] / 投入費用[$] 

 対策によるベネフィット(軽減される損失)は、対策前の損失の期待値[$/year]×期間[year]と対策後の損失の期待値[$/year]×期間[year]の差として見積もられるため、上記の式は以下のように整理される。

・対策の費用対効果[-] = 対策によるベネフィット(軽減される損失)[$] / 投入費用[$]

                    = 対策前の損失の期待値[$/year]×期間[year] - 対策後の損失の期待値

                      [$/year]×期間[year] / 投入費用[$]

 上記の式における期間[year]はどの程度のスパンで費用対効果を考えるのかということであり、この期間の長さは完全に任意のものである。同様に投入費用も任意のものであり、任意の投入費用に対する対策のベネフィットの大小によりリスクの優先順位を決定する。

・リスク評価のスタディ

表1 災害種別の損失期待値

災害種別

死者数[人]

経済損失[万ドル]

損失額類型[万ドル]

発生頻度[年]

損失期待値[万ドル/年]

GRB

7.0×10^9

??

1.4×10^12

10^9

1.4×10^3

隕石衝突

7.0×10^9

??

1.4×10^12

10^9

1.4×10^3

火山噴火(トバ)

1.0×10^6

??

2.0×10^8

10^5

2.0×10^3

気候変動

??

??

??

10^5

??

スーパーフレア

??

??

??

10^3

??

感染症(エボラ)

1.0×10^5

??

2.0×10^7

10^2

2.0×10^5

地震津波(南海トラフ)

3.3×10^5

22000

6.6×10^7

10^2

6.6×10^5

テロ(9.11)

3.0×10^3

3.3×10^8

3.3×10^8

10

3.3×10^7

洪水

1.0×10^4

??

2.0×10^6

1

2.0×10^6

飢餓・干ばつ

1.5×10^7

??

3.0×10^8

1

3.0×10^8

AIシンギュラリティ

??

??

??

??

??

 

 ここでは先の式を用いてリスクの優先順位をつけるスタディを試みてみたいが、残念ながら今回は対策によってどの程度損失が軽減されるのか調べるすべがないため、ここでは、年あたりの災害による損失の期待値のほうを比較してみたい。これはあくまでスタディであり、数字も厳密なものでは決してなくオーダーだけを問題とする。

 対象とするのは将来予想されている、あるいは過去にあった任意の大規模災害を取り上げ、そこにおける死者数[人]、経済損失[万ドル]の値を調べ、それを損失累計額[万ドル]に換算する。損失は人命1人につき200万ドル、経済損失は未来の出来事の場合は予想されている最大値、過去の出来事の場合は報道されている値を用いる。そして換算された損失累計額[万ドル]を頻度[年]で割り、年あたりの損失期待値[万ドル/年]を算出する。その結果が表1である。 

 この結果からわかることは、ガンマ線バースト(RGB)、巨大隕石衝突、大規模火山噴火といった発生頻度の低い大規模災害は、年あたりに換算してしまうとそれほど損失は多くなく、むしろ感染症、地震津波、テロ、洪水、飢餓干ばつといった比較的身近な災害のほうが高いリスクを有していることが理解できる。スーパーフレアや気候変動(自然的、人為的)はそれによる損失量がはっきりしないうえ、特に気候変動は洪水や飢餓・干ばつとも関連していることが考えられるため評価が難しい。

 災害対策の費用対効果の観点からみても、ガンマ線バースト(RGB)、巨大隕石衝突、大規模火山噴火といった事柄は仮に予めそれが予知できたとしても、それらの被害を抜本的に減らす対策を取ることは難しく、費用対効果の面でも非効率となって対策の優先順位が低くなることが予想される。それに対して、感染症、地震津波、テロ、洪水、飢餓・干ばつなどはこれまでも対策がとられてきたリスクであるため、投資量を増やせばその分ベネフィット(軽減される損失)が増えることが予想される。特に感染症はこれらのうちでは損失期待値が低い部類にあるが、その多くがワクチンの接種によって防ぐことができるため、費用対効果も高くなることが期待される。対してテロ、洪水、飢餓・干ばつ等は損失期待値は一番高い部類にあるが、これがどの程度対策によって損失を減らすことができるのかはっきりとせず、また適用した事例(9.11など)が例外的に巨大な災害であることも考えられるため、これらが最優先であるとは断定しがたい。

 それゆえ、表1の結果から大まかに想像される優先順位は以下のようなものとなる。

優先順位大:感染症、地震津波、テロ、洪水、飢餓・干ばつ

優先順位小:ガンマ線バースト(RGB)、隕石衝突、火山噴火

不明:気候変動、スーパーフレア、AIシンギュラリティ

  このうち、不明の部分の順位は、発生頻度や死者数、経済損失額というものが明らかになれば、優先順位もはっきりすることとなる。優先順位大の内部の順位、優先順位小の内部の順位に関してさらなる順位づけをするためには、投入費用あたりの損失軽減量、つまり費用対効果をなんらかのかたちで具体的な計算するほかにないといえるが、土木工事を必要とするものよりも、ワクチンや食料等で対応できるもののほうが費用対効果が高くなるであろうことは直感的に想像できよう。

 

参考サイト

・Science and Environmental Health Network 「Risk Assessment and Risk Management」

 http://www.sehn.org/pppra.html

http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/precautionary/risk_assess_mass/risk_assess_mass.html

近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』にみる宗教的行為としての「片づけ」

 

 サンマーク出版の本を何冊か読んでたら、『人生がときめく片づけの魔法』についてむかし書いた文章思い出したので載せてみる。こんまりさんの本の下手なまとめみたいなものだけど。現代社会と宗教のレポート課題。

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 ロランバルトが日本に滞在しとある会社の工場の視察をした際、従業員が工場の機械に名前をつけ、機械を名前で呼んでいる様子を見、日本が先進国でありながらアニミズムがはっきりとした形で残っている国であるということに驚いたという話が講義の中でされていたが、本レポートでは、現代社会においても日本人がいかに身の回りにあるあらゆるモノの中にも霊的なる存在を見、モノと人間の関係性、あるいはモノとモノとの関係性というものを重んじているのかを、近藤麻理恵の著書『人生がときめく片づけの魔法』を例に見てゆきたい。

・『人生がときめく片づけの魔法』とは

 2011年に発売された近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)は片づけについての考えをまとめた、一生活者による片付け本であるにも拘らず、100万部を超えるベストセラーとなり現在では続編も出版されている。また、出版活動だけでなく近藤は「片づけコンサルタント」としてレッスン事業や講演会を行い、メディアにも頻繁に登場してはその片づけ方法を伝授しており、「片づけブーム」は今やモノ余りの時代にモノとの関わり方を改めて問い直すひとつの社会現象となっているとさえいえる。

 彼女の著書『人生がときめく片づけの魔法』の特徴は、片付けのノウハウを伝えるだけでなくに留まらず、彼女の言うところの「片付けマインド」なるものを身につけさせようとしている点にあり、その「片づけマインド」とは、自分の身の回りに存在するモノに霊魂が宿っていることを認め、モノと自分の関係を再構築しようとする、いわば「宗教的」なる思考様式である。

・「ときめく」とはなにか

 近藤は片づけを日常的なものではなく「祭り」的なものであると位置づけ、短期に、完璧に、「捨てる」ということを強調する。そしてその先に「人生がときめく」ような「理想の暮らし」があることを想像させる。そのためにとにかく所有物を可能な限り手放すことを求めるのだが、その捨てるかどうかの判断基準は、触った瞬間に「ときめく」かどうかの一点であるという。

 この「ときめく」とはいったいどのような状態であろうか。彼女は片づけを「モノを通して自分と対話する作業」であるといい、片づけをする際には、瞑想状態とまではいかないまでも、自分と静かに向き合う感覚になっていくことがあるという。モノをひとつひとつ触ってときめくかどうかを確かめ、ていねいにモノと向き合いながら関係を保つべきか断つべきか瞬時に判断する行為は、 非常に集中力を要する自分と向き合う作業であるらしく、彼女は片づけは「滝に打たれる感覚」に近いと言う。そのように自分と向き合い、モノと向き合った結果、その関係に感謝しこれからも続けていきたいと願い心が躍るような状態となることが「ときめく」ことであり、この「ときめく」モノに囲まれて生活することによって、人生に魔法がかかり生きていく自信と感謝の思いが生まれるとさえ彼女は断言する。

・関係を片づける行為としての「捨てる」

 近藤は片づけの第一歩は「捨てるを終わらせる」ことであると言うが、「捨てる」作業にあたって、近藤は思考よりも直感を重視する。とにかく一度取り出して触ってみて「ときめく」かどうか。「ときめく」ものは収納し、「ときめかない」モノは即廃棄する。グレーゾーンである「ときめかないけど、捨てられないモノ」に対しては、そのままですまさずにとことんそのモノと向き合うことを問い、なぜ自分はそれを持っているのか、それが自分のところにやってきたところにどのような意味があったのか、「そのモノが持つ本当の役割」をあらためて考え直すことを勧める。そのうえで、役目を既に終えていることに気づいたものに対しては、感謝して手放すことにより、初めてモノとの関係に「片をつける」ことができるという。

・関係を維持する行為としての「収納」

 近藤による片づけ指導、モノとの関係の再定義は、捨てることだけに留まらない。衣類を「たたむ」という行為ひとつをとっても、服を小さく折り曲げ、衣類を綺麗に多く収納するというだけのものに留まらず、自分の手を使って洋服に触ってあてることで、「洋服にエネルギーを注ぐ」ことに本当の価値があるという。手をつないだり、頭をなでたり、抱きしめたり、親子のスキンシップが子どもの情緒を安定させる効果があるように、衣類においても持ち主の手によって触って整えられることは心地よく、エネルギーが注がれる行為なのだという。ストッキングをむすぶことや、靴下を裏返してまとめるなんてもってのほかであり、そのような行為は「足と靴の間でムレと摩擦に耐え、持ち主の足を甲斐甲斐しく包み続ける靴下のやっとの休息の時間に再度の緊張を強いる暴力的な行為」なのだという。また、たたまれることよりもかけられることを喜びそうなモノに対しては、ハンガーにかけて収納し、かつ同じカテゴリーのモノは隣り合わせにしてまとめてかけることを勧める。ここでも「風を通すとひらひら揺れてうれしそうな感じ」「カチっとしていて折り曲げるのを拒否する」「自分と同じタイプの人といっしょにいると無条件に安心してしまう」などというような身体的比喩表現を近藤は多用する。

 このような感覚はその他のモノにおいても同様である。たとえばバッグに関して、バッグは毎日空にするのが基本であり、次の日同じモノを使うからといって一晩モノを入れっぱなしにしておくことは、「人間にとって寝ている間に胃袋に食べ物がぎっしり詰められていることと同じ」であるという。ブラジャーと財布に至っては「おブラ様」「お財布様」と呼ぶほどに恭しく扱うことを求め、ハンカチで包んで水晶と一緒に小箱に詰め、引き出しの一角に納めて「おやすみなさいませ」と挨拶をするほどに、別格の敬意と丁寧さをもって取り扱うことが必要であるという。ここまでくると、もはや日常生活をおくる上での利便性の観点だけではもはや説明がつかないほど手間がかかるものである。モノの立場にたって考えた方が、モノが綺麗な状態で長持ちしてくれるからという功利的な観点からではなく、「そうしたほうがモノ自体が喜ぶから」と、近藤は完全にモノの立場で物事を捉え、モノの立場であるべき片付けのあり様を考える。

・奉仕してくれる存在としての「モノ」

 さらには近藤は「モノをねぎらう」ことを何よりも大切にする。近藤は実際の生活の中でも、靴、衣類、小物、植物あらゆるものに声をかけ、日頃の感謝を述べると言う。私たちが意識していなくても、モノは本当に毎日、持ち主を支えるためにそれぞれの役割を全うしており、一生懸命私たちのために働いてくれているのだから、持ちもの一つひとつに対して、その日一日、自分を支えてくれたことにちゃんと感謝するべきであり、毎日は無理でもたまにはねぎらってあげることが大事であるという。彼女にとって「モノ」は、単なる実用的な「モノ」ではなく、私たちのために毎日献身的に奉仕してくれている「モノ」(存在)なのであり、「モノ」が毎日奉仕してくれているのと同じように、私たちも「モノ」に対して感謝し、奉仕していくことが必要だと教える。

 「片づけをすると人生がドラマチックに変わる。それはもう100%と言っていいくらい、片づけの魔法が人生に及ぼす影響は絶大だ」と近藤は断言する。片づけによってモノとの関係を見直す、モノとの関係を見直すことはひいては人との関係を見直すことでもあり、それによって自分のおかれている環境が本当に大好きになり、素晴らしいものに囲まれて生きていることを実感し、自然と自信と感謝の思いが湧き、人によっては体型すらも変わり、人生が好転していくという。ただこのような実益も近藤からすればただの副産物に過ぎず、なによりもまず「モノ」への敬意がはじめになくてはならないのである。

・宗教的行為としての「片づけ」

 近藤にとって「片付け」とは、「モノ」の内に宿る霊性を認め「モノ」本来のあるべくあり様を探るものであると同時に、「モノ」との関係性を見直すことを通じて、自己の内面のあるべくあり様についても探求してゆく行為でもある。

 彼女曰く、捨てられない原因を突き詰めていくと二つしかなく、それは「過去に対する執着」と「未来に対する不安」のどちらかであるという。この二つに囚われるとモノが捨てられないため、「今、自分にとって何が必要か。何があれば満たされるか。何を求めているのか」を明らかにする必要があるという。自分にとって必要なモノが見えていないと、ますます不必要なモノを増やしてしまい、物理的にも精神的にもどんどんいらないモノに埋もれていってしまう。それゆえ自分にとって必要最小限なモノの量、彼女のいうところの「カチっとポイント」を把握し、それ以上モノを増やさないことが大切だというである。

 また、「祭り」的なものという表現にもあらわれているように、彼女にとっての「片付け」は明らかに非日常的、儀式的なる行為である。他人の「おうち」の片づけをする際も、家の前で黙して立ち、簡単な自己紹介とお祈りをするという儀式を行ったのちに片づけを行うという。近藤にとって片づけは「人」と「モノ」の関係を見つめ直す行為であるだけでなく、「人」と「モノ」と「おうち」のバランスをとる行為、大仰に言えば「おうち」というミクロコスモスに秩序をもたらす行為なのであり、いわば一つの神事であるのだと言えよう。実際、彼女は5年間ほど巫女として神社につとめていた経験があり、彼女の片づけの裏テーマは「お部屋を神社のような空間にすること」であるのだという。居心地のいい家、いるだけで気持よくなる家、なぜかリラックスできる家、それは突き詰めて言えばある種の霊性の涵養の場であり、それは彼女にとって「神社のような空間」なのであろう。

・日本人と「片付けマインド」

「すべてのモノはあなたの役にたちたいと思っている」

「モノは捨てられて燃やされたとしても、あなたの役に立ちたいというエネルギーは残る」

 近藤は「モノ」の内に宿る魂の存在を信じて疑わない。さらにいえば「モノ」は成長するとさえ考えている。彼女曰く、「モノ」の魅力の要因は三つであり、モノ自体の美しさがどれくらいあるか(先天的な魅力)、モノにどれくらい愛情が注がれてきたか(後天的な魅力)、モノとしてどれくらい歴史や貫禄があるか(経験値)であるという。美術館におかれているモノは、たくさんの人に大切なモノとして敬われ、そして、多くの人の視線を浴びつづけたからこそ、美術品・工芸品として洗練されたモノに育ったのであるし、ただの茶碗でも主人に大切にされたモノは強力な魅力を持つという。人に大事にされ、愛されてきたモノには、ある種の気品と風格が自然と宿るというのである。

 このような彼女の「モノ」の魂に対する信仰は、「信仰」や「宗教」として対象化するのがバカらしくなるほど、彼女にとって自然なことであり、当然なことのように見える。彼女のいうところの「片付けマインド」は、衛生的な近代空間の実現を目指すものとは明らかに異なる類のものであり、非科学的とすら言うこともできようが、それにも拘らず近藤のこの「片付けマインド」は広く日本人に受け入れられた。

 このような現象が起きたのは、近藤の「片付けマインド」が彼女オリジナルの新しい考えでありつつも、もともと日本人にとって馴染みやすい考えであり、伝統的な価値が現代的な姿で再度登場してきたためであると考えるのが自然であろう。事実、近藤の「片づけマインド」は、「足るを知る」といったような禅仏教的な教えと通ずる点も多く、このような考えは日本人の生活に根付いていたはずのものでありつつも時代の変遷とともに忘れかけてしまっていた思考習慣でもあった。成長の時代が一段落し次の社会のあり方を模索している中、このようなかたちで近藤がモノとの関係の問い直しを呼びかけ、それが広く日本人に受け入れられたことは、近代が見落としてきた価値を再考する動きの例として見ることもできるのではないだろうか。

参考文献

近藤麻里恵『人生がときめく片づけの魔法』、サンマーク出版、2011

近藤麻里恵『人生がときめく片づけの魔法2』、サンマーク出版、2012

バックミンスター・フラー その人と哲学

 

昔書いた建築意匠のレポート。なぜかインタビュー形式

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 40年という短い間にあなたは建築家として、あるいは技師として、また発明・企画家、地図製作者、数学者として新聞のトップ記事をかざってきました。それにもかかわらずあなたはこれらのどれをも職業としているのではありません。あなたの仕事は一見互いに孤立してみえますが、そこには共通する考えや、それらを統合していく意図などがあったのでしょうか。

フラー「私は住宅を計画したり、新型の自動車を大量生産したり、新しい地図投影方式を発明したり、ジオデジック・ドームやエネルギー幾何学を発展させたりすることを始めたのではありません。私は宇宙について着手したのです。それは、エネルギー・システムとしてたびたび明らかになる再生産諸原理の組織体としての宇宙です。私は一足の空飛ぶスリッパで終わらすことすらもできたのです。」

 宇宙は全体として秩序だっており、それはエネルギーの相互関連の観点から認識が可能だということでしょうか。エネルギー・システムについてもうすこし具体的にお聞かせ願えますか。

フラー「エネルギーは再生産的です。再生産的とは、多軌道で、周期的で、歳差を持つが共心的である、という意味であり、ある時にはひとつの相を、次にはまた他の相をといったように、ありとあらゆる相を示すことのできる能力を意味しているのであります。しかし、それぞれの相は、年輪のように、あるいは水に投げられた石によって生じる波紋のように、それぞれ独自の軌道を持っています。そして種々の軌道は同心円上あるいは球殻状に、外側にあるいは内側に進みます。種は再生産的です。結晶は再生産的です。エネルギーそれ自体は、常に産出力をもった存在です。エネルギーの形は自由自在です。エネルギーは自ら自身を、輻射、質量、模様、あるいは労働の源泉という形で、覆い隠してしまうこともできます。そして基本的な法則によると、エネルギーは創り出すことも、消失させることもできないのであり、宇宙の機構の中で、エネルギーは、神の祝福を受けて常にかわらぬ再生産の喜びとともに徘徊する宿命を持っているのであります。」

 あなたはそのようなエネルギーに対する認識を、ダイマキシオンという用語を用いて実際に40年間の仕事の中で思想を形として結実させていますね。そこにはどのような意図があったのでしょうか。

フラー「はい。ダイマキシオンという概念は、合理的な世界でのすべての社会活動において、単位当たりの入力について最も効率的に包括的に合理的行動を行うことを要求するものであります。ダイマキシオンという構成をとることにより、利用可能な科学技術の範囲内において実行可能な最も高い効率を生み出すことができます。」

 なるほど。なかなか難しい概念なのですが具体的にはどのようなものなのでしょうか。

フラー「例えばダイマキシオンハウスは、大量生産、パッケージ化した輸送、短い建設時間、低価格、設置条件への適合性、耐火性、耐震性、耐候性、解体・再輸送を全て実現しようと試みたものです。

24時間以内に配置でき、訓練を受けた職人が建込みを行い、設備を仕上げられるだけでなく、無駄な手間、利己主義、搾取、政治、中央管理を排除し、洪水、家事、大旋風、雷、地震、そしてハリケーンに耐え抜きます。金属の代わりに壁や窓や天井にはカゼイン、つまり野菜の屑から作った透明や、半透明や、不透明な膜を使い、浴室もカゼインを素材として一体形成されます。ドアは灰色の気球用の絹布製でこれは空気で膨らませて枠に密着させるのでほこりを寄せつけません。全体を覆うためにはアルミニウムの合金であるジュラルミンがパネル板や瓦棒として使われ、床には空気で膨らませたゴムシート。石油エンジンをエネルギー源とする電力が家を暖め、同時に鏡で反射されつつ広がって半透明の壁を通して家を照らします。実現すればわずか1500ドルでたてることができるものです。」

 なるほど。ダイマキシオン地図の場合ではどうでしょうか。

フラー「ダイマキシオンの世界地図ではベクトル平衡体の展開図の形をしており、14面体と20面体のものがあります。地球表面という球体を平面の上に投影する手法にはいくつかありますが、これらはそのどれにも一長一短があり、大陸の全体配置の把握に力点を置くと、形や大きさが歪んでしまい、逆に大きさや形を正確に把握しようとすると全体がうまく捉えられなくなる。この点、多面体で球面を近似するダイマキシオン投影法は実に優れた手法であるといえ、どの大陸も寸断されず、しかも相対的な形や大きさに視覚的歪みの無い初めての地図です。」

 多面体を利用することにより、球面を近似するという手法は後のジオデジック・ドームと共通する手法ですよね。ここではどのような意図があったのでしょうか。

フラー「引張力のかかる地引網のような網目構造と、その網目を球体に支える非連続の圧縮材を用いたテンセグリティ構造により建物重量の軽減化をはかりました。球面状のひとつの三角形を三つの大円で構成するようにすれば、球面の上には総三角形のグリッドができ、これがジオデジック・ドームの網目になります。この構造は強く、しかも最小の表面積で最大の空間を作ります。短い組み立て時間、強度、軽量性、運搬可能性は空間をつくる上での大きな強みです。」

 なるほど、より少ないエネルギーでより多くのことをなすこと、行程のシステム化、地球上のどこでも通用しうるグローバルさ、人類との生活の維持のため、というのはダイマキシオンの世界で通底する思想であったわけですね。 冒頭であなたはこれまでの取り組みにおいて、別個の孤立した事業を始めたわけではなく、「宇宙」に着手したのだとおっしゃっていました。あなたはしばしば、起こり得る事象の全体性を称して、「宇宙」と呼ぶことがあります。あなたの言う「宇宙」とはなかなか扱いづらい概念だと思うのですが、それについて説明いただけますでしょうか。

フラー「宇宙とはすべての人々が意識のうえで理解し、伝達し合った経験の集合体です。宇宙は全体としてはわれわれには理解できませんが、ある有限個の事象だとか経験が個々に存在しているときにはひとつのまとまりとして存在しています。理解され得ることのない事象の拡がりをもっていながら、これらの事象の部分部分は全体のうちの一部分として欠くことのできないものであり、我々が研究したり分類したりする行動よりも先に存在するものであります。物質界がエネルギー保存の法則で支配されているように、非物質的な現象、経験も有限なものであり全体量は生成されることも失われることもないものであります。 私はこれを経験保存の法則と呼んでいます。」

 つまり物質界でも非物質界でもエネルギーは限られたものであり、その総量は常にかわらない、と。非物質界も物質界と同じようにエネルギーの総量がかわらないことを利用して、エネルギー転換を意図的に行っていくことは可能なのでしょうか。

フラー「はい。先ほども申し上げました通り、宇宙はすべての人びとの経験の集合体です。すべての人間の経験は、有限な量を持ったエネルギー事象であり、遂行された実験、書かれた書物、表現された思想、完成された構造物などの全てのものは有限なエネルギー事象なのです。経験は有限であるからこそ、貯めたり、学んだり、教えたりすることができます。経験は意識して努力することによって、人類に役立つものに変えることができるのです。経験を意識的に選択的に蓄積していくことにより、将来の事象の制御、すなわち未来に起こるかもしれない出来事を取り扱う社会の組織化された全体能力を培っていくことができるのです。」

 人類の将来にとって有益となる経験を意識的に選択的に蓄積し、それを社会に還元していくこと。それはやはり科学の知の蓄積、またその産業化によるところが大きいのでしょうか。

フラー「そうです。私は政治的変革の力を信じておらず、それはもはや時代遅れの活動であると考えます。変革は究極的には科学技術で行われるべきであり、政治的変革は言葉の遊びあり素朴な試みであります。立法行為がその精神においてどんなに慈悲深いものであろうとも、実際のところ、その目的に適した科学技術の裏付けが無い限り、それは無益なものです。人類の生存は科学技術的な問題であって、政治的な問題ではありません。豊富さというものは生産によるのであって、外交議定書によるのではない。人類が疾病に苦しめられ、飢えに脅かされている社会を、統制のとれた豊富さを持つ王国に変える可能性は、自分の経験した諸事実を秩序づける人類の能力に依存しているのであり、包括的で予測的な計画科学を必要とします。」

 人類の生存を維持させるためには将来の事象を制御するための組織化された全体能力が必須であり、それは科学技術によるものが大きい、ということでしょうか。それがその時代の財であると考えるのですね。

フラー「はい。その時代の財を評価するのは簡単です。その時点における生産と供給の科学技術的な水準を明確に量的に見積もることです。その時代の道具や設備を新たに開発したり、作りだしたりせずに、x日間生き続けることのできる人間の数を評価すればよいのです。」

 そのような経験に基づいて将来の事象を制御し、人類の生存に貢献するものが人類にとっての財であるのならば、ダイマキシオンと名付けられた一連の作品もそのような見地に立って創られた人類にとっての財となりうるものなのですね。

フラー「実験に先立って作られた理論は誤っていることがあるかもしれないが、自然は決してそのようなことはしません。物理学の諸原理は自然に対して忠実です。それはひとつひとつの系の内においては規則性として観察され、実験の中でこれらの規則性や力や応力の現実の構成を確認してきたのです。私のモデルはすべて、この実用的な試験に合格したものです。それらは立派に通用しました。これらは実験によって確かめられた、理想的で、実行可能な建設の原型であって工業的に再生産可能なものであります。先ほど申しました人類の経験の実際への適用と言うことができるでしょう。」

  

参考文献   

B・フラー/R・W・マークス共著、木島安史/梅沢忠雄訳『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』鹿島出版会 1978。

マーティン・ポーリー著、渡辺武信/相田武文共訳『バックミンスター・フラー鹿島出版会、1994。

B・フラー著、芹沢高志訳『宇宙船地球号操縦マニュアル』ちくま書房、2000。

藤田正勝「親鸞の「悪」――末法の世における救い」『日本文化をよむ――5つのキーワード』

 

1. 末法の世に

末法思想:釈迦が入滅してから、その教えが徐々に衰退していくという思想

正法の時代:教えとその実践が残る

像法の時代:正しい修行が成されず誰も悟りを開けない

末法の時代:教えは残るが、行(実践)も証(その結果としての悟り)もなくなる

法然(1133-1212)「当今は末法にして現にこれ五濁悪世なり」

五濁悪世(ごじょくあくせ):この世が、人々のあさましさや、人間の資質の低下、誤った思想の流布、時代の汚れなど、五つの汚れで満ちること

→この悪世では自力の修行によって悟りは得られず、ただ称名念仏し、阿弥陀仏の力によって往生を願うほかない(鎌倉時代の人々の根底に流れる思想)

道元(1200-1253)「無常迅速、生死(しょうじ)事大」

この世の物事はすべて無常で、瞬く間に過ぎ去っていく、迷いの世界を果てしなくめぐりさまようことから離れ、さとりを得ることこそ、もっとも重大な事柄である

親鸞道元の自然

道元而今(しきん)の山水は、古仏の道現成(どうげんじょう)なり」

→いま・ここ、目の前にある山水は、仏の教えがそのまま現実になり、形を現したものである

親鸞                                           

→煩悩に惑わされ、迷いの世界を脱することのできない衆生、戦乱や飢饉に苦しみ貧困にあえぐ農民や商人に目を向ける 

 

2. 徹底した悪の自覚

悪人正機:悪人こそ救いの対象である

→深い罪悪を身に背負い、仏になる能力も素質ももたない「悪人」こそ救おうと阿弥陀仏は願を起こした。阿弥陀仏にすべてを委ねることこそ、往生のための正しい因になる。

われらが皆、石や瓦であり、われらすべてに仏の慈悲が及ぶ

煩悩具足の凡夫

「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の太山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを楽しまざる…」

→悲しいことに私は愛欲の広い海に沈みこみ、名利(名声や利益)の大きな山に迷いこんで、正定聚(しょうじょうじゅ)(仏となることが定まった人々)のなかに入ることを喜ばないし、さとりに近づくことも楽しまない…

浄土真宗に帰すれども、真実の心(しん)はありがたし 虚仮(こけ)不実のわが身にて 清浄(しょうじょう)の心もさらになし」

→浄土真実の教えに帰依したが、真実の心をもつことはほとんどありえない。我が身はみせかけやうそ、いつわりでいっぱいであり、清浄な心は少しもない。(親鸞八五歳)

愚禿(ぐとく)親鸞親鸞の自称

禿(かぶろ):ボウズでも髷でもないざんばら髪                      

後鳥羽院の時代に流罪となり、「非僧非俗」の自らの立場を「禿」と表現            

みせかけやうそ、いつわりで満たされた自己を「愚」と表現                  

→単なるへりくだりではなく、どこまでも深まっていく悪の自覚と絶望

 

3. 逆説としての救い

悪の自覚から救いへ

「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」

→自分こそむさぼりの心や愛憎に突き動かされ、自らを恃(たの)む心に縛られているという自覚

「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」

→罪業を背負い、徹底して懺悔せざるをえない自分であるにも拘わらず、そのうえにも光はみちてきて包まれる。その「かたじけなさ」。悪を徹底して自覚することが、同時に救いの次元を切り開く。 救いに値しないからこそ、救いを自ら手にする力をもたないからこそ、救いがさしのべられる逆説

淤泥華(おでいけ)の喩え:蓮の花

「譬へば高原の陸地(ろくち)には蓮華を生ぜず、卑湿(ひしつ)の淤泥にいまし蓮華を生ず」

→煩悩という汚泥のなかにのみ、仏法は芽を出し、花を付ける。心のなかに生まれてくる悪を正面から見つめ、自己の不真実を自覚し、懺悔するものにこそ、救いの光が差し込み、光によって包まれていることが意識される。

歓喜と懺悔

清らかな花が咲いたとしても、それはなお汚泥のなかにある。汚泥は花の存在条件である。

純粋なる歓喜は存在せず、歓喜は懺悔とともにあり、懺悔は歓喜とともにある。

「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏(うろ)の穢身(えしん)はかはらねど 心は浄土にすみ遊ぶ」

阿弥陀仏の願を聞いてから、われらは生死の世界に迷う人間ではなくなった。煩悩で汚れていることは変わらないが、心は浄土に住み遊ぶ

救いは、汚れた身であることと、汚れを脱することが一つに結びついたところに成立する

生死と涅槃、有漏と無漏(煩悩がないこと)、歓喜と懺悔はいわば一つであり、懺悔があってはじめて歓喜があり得、歓喜もまた懺悔によって裏打ちされる。繰り返し懺悔へと投げ返され、それを通してはじめて歓喜歓喜でありうる

涅槃や救いはそれ自体、抽象的に求められるものではなく、生死の世界にこそ求められるとした点に、親鸞道元に代表される鎌倉仏教の特徴がある。

列島改造論2.0

 (大野) 

基本的に拡大期はユニバーサルでいい。一つ良い仕組みを考えて世界中でやりましょうというのがアテネ憲章のコンセプトだったと思います。ただ、縮小期は基本的に資源が少ないのであるものを利用するので、手持ちのものが違って個性的にならざるを得ないと思います。若者の顔は似ているけれど老人の顔は違うというのに似ていると思います。そのような多様性を共有できるような仕組みをネットワーク型で実現できればいいなというのが私の考えです。 2011年12月3日

ROUNDABOUTJOURNAL Vol.14 ***

資本主義、民主主義の抱える問題とこれからの社会システムについて

 

2016年12月12日

一部内容重複

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2000年代に入ってからというもの、かつてのような「一億総中流」意識は遠い過去のものとなり、特にリーマンショック以降は格差の問題は国内外問わず前景化し、様々な地域で同時多発的に極右勢力が台頭するなど政治状況も極めて不安定なものとなってきている。現代においては資本主義、民主主義あるいは国際協調主義といった20世紀的な価値の根本的な問い直しが迫られているのであり、先が全く見通せない移行期的混乱の時代に突入したともみなすことがでよう。

しかし現実には既存のシステムが矛盾を孕んでいることは多くの人が認識しつつも、これからの社会システムをいかに構築していけばいいのかということに対する合意はほとんど得られないままであり、現代ではその問題を抱えた既存のシステムにおける部分最適を目指すこと以外になんら次の方向性が見いだせない状況にある。かといってこのまま既存のシステムの方向性を推し進めていけば、その矛盾は一層膨らんでいつか大きな破綻をきたすだけのことであり、これらのシステムの限界を認識し新たなシステムを再構築していくことはもはやイデオロギー的対立に留まらない逼迫した課題となりつつある。以下では、資本主義、民主主義など現在のシステムが直面する課題や限界を整理するとともに、今後の社会システムのあり方について微力ながらも考察していきたい。

・資本主義の抱える問題

そもそも資本主義とは資本が自己増殖をしていくところにその大きな特徴がある。それは、資本主義が常に開拓していく「フロンティア=周縁部」を必要としているとも言い換えることができよう。

戦後、高度成長期のようにに冷蔵庫、車、テレビといった耐久消費財に代表されるような「モノ」が不足していた時代においては、製造業などに投資しては利潤を得るというスタイルが一つのスタンダードであった。さらにそのような成長スタイルは二割の先進国が八割の途上国からエネルギーや人的な資源を安く買うことを前提としており、そのことによってのみ先進国の全体としての成長というものが成立していた。成長には資源の消費が不可欠であり、それゆえ途上国が近代化され先進国と同じような生活を目指せばその人口分だけエネルギー消費が倍増していくことに繋がってしまい資源が不足してしまう。現実には途上国が途上国であってくれたゆえに、先進国は全体として経済成長ができたのであり、これから同じように新興国が発展して地球全体として半永久的に成長していくことなど資源が無尽蔵に存在しない限り有り得ない。

さらにそのようなかたちの実物投資による利潤の追求は、モノが豊かになり市場が飽和してくるにつれ利潤率が低下し、資本の拡大再生産ができなくなっていく。そのような資本主義の限界は70年代頃にはすでに見えていたのであるが、そこで資本主義が自己延命するために見出した方策は、電子・金融空間という仮想空間の創造である。これはITと金融自由化が結びついてできた空間のことであり、これによって資本は瞬時にして利潤を得ることが可能となった。70年代半ばにおいてすでに実物投資による資本の拡大はすでに縮小傾向にあったが、80年代では個人の貯蓄率は比較的高く、これから時代が大きく変わっていくような期待もまだあり、土地や証券といった新たなフロンティアを探しては、それが値上がりし続けていくという神話のもとにマネーを注ぎ込んでいった。これによってバブルが引き起こされ、資本主義が正常運転しているかのような偽装を図ったのであるが、そのような虚偽はすぐさまバブル崩壊といったかたちでその矛盾を露呈することになる。バブルの生成過程において富が偏在していく一方、バブル崩壊によって企業は解雇や賃下げなどリストラを断行させ中間層は没落し、格差は拡大していく。その結果、購買力が落ち消費は落ちこみ、それへの対処という名目で超低金利国債の増発が行われ、資本の自己増殖のためにバブル経済も厭わなかった結果、超低金利に陥るという矛盾に至るのである。

しかしながらそれでも資本主義は自己延命を図ることをやめず、バブル崩壊後も資本は新たなる「周縁」、つまりは資源の収奪先を探し求める。その対象はかつては端的に途上国であったのだが、途上国が新興国に転じ満足できる利潤が獲得できなくなると、新たなる中心/周縁の構図の組み替え作業が必要となってくる。グローバリゼーションが進展し資本が国境をやすやすと越えていく現代においては、その対立を国家間の対立としてのみ捉える必然性もなく、それは国家の内部における二極化の構造としても現れてくる。その収奪の対象となったのは米国でいえばサブプライム層であり、日本でいえば非正規社員である。リーマン・ショックは先進国が実物投資では成長できないがゆえに、ヴァーチャルな空間で無理な膨張(高レバレッジサブプライムローンなどの欠陥金融派生商品)をさせた結果、それが破裂して起きたと言われるが、そのようなかたちで周縁部に無理を強いない限りにこれ以上の成長が望めないほど資本主義は末期的なのである。昨今の労働基準法規制緩和ホワイトカラーエグゼンプション、カジノ法案等々もすべて資本主義の延命のための新たなる周縁部の開拓として捉えることができよう。

・民主主義の抱える問題

では民主主義についてはどうであろうか。現代の民主主義の問題として、グローバリゼーションにより様々な分野で絶えず世界的な影響に晒されるため、国民国家という枠組みそのものが相対化しつつあるということが言われるが、それと同時に現代において大きな問題となっているのが、「公共」あるいは「社会」の存在に対する意識の希薄化である。

かつてトクヴィルが指摘したように民主主義がうまく機能するためには、国家と個人の間における中間共同体の存在というものが重要になる。アメリカにおいてはそれは教会などの中間集団がそれに該当するであろうし、日本においてはかつては地域共同体のようなものがそれに該当したであろうが、現代においてはそのような中間共同体はことごとく解体され、国家と個人が中間領域の介在なしにいきなり向き合わざるを得ないような状況が組織的に作り出されている。かつては会社という組織もひとつの公共圏であり得たかもしれないが、終身雇用は崩壊し成果主義が導入されつつある現代の雇用環境では営利活動とは直接関係しない公共精神を涵養する場として会社組織が機能することは考え難いであろう。現代では「社会など存在しない」を地でいくような状況が続いているのであり、「公共」という意識そのものが危機に瀕しているといえる。ましてや日本はかねてからアメリカ型の小さな政府路線で、社会保障は公共事業投資などによる職域ごとの雇用保障で賄ってきたところがあるが、右肩上がりという資本主義の夢が限界を迎えると同時に、「終身雇用」というある意味における日本型社会保障システムも崩壊の危機に瀕している。現代では経済成長、終身雇用、中流意識といった昭和的価値すべてが限界を迎えているのであり、格差は拡大し、個人は完全にセーフティーネットを失ってリスクの高い生活を余儀なくされている。

では早急に相互扶助システムの再構築を、と言いたいところであるが、先にも述べた通り現代においては「公共」の意識自体が危機に瀕しているため、自らに関係するかどうかもわからない社会保障の費用を多くの人は負担したがらない。ましてや一億人を超える国家内での再配分となると、公共圏が広すぎて自らの負担がどう役立てられるのか想像し難いし、収めた税金が適切に使われるかどうかにも強い不安が残る。それゆえ新自由主義的な自己責任論が勢いをもち、むき出しの個人がそのまま社会に対峙するような状況がうまれ、社会的に溜まった不満は公務員、在日朝鮮人生活保護受給者、人工透析患者等々、その都度見つけられた攻撃対象にぶつけられることとなる。政治家もそれを利用し、システムの再構築といった難しい問題に取り組むよりも、対立を煽ることによって支持率を高め自己延命を図る。現代はあらゆる場面で既存のシステムが末期的兆候を示しており、近い将来、大きな破綻が目に見えた形で現れてきても決して不思議ではない。

しかしながら、悲観してばかりはいられない。21世紀の社会のありようを本気で考えなければならない時期に差し掛かっている。イギリスのEU離脱、トランプやルペン、ドゥテルテら極右勢力の台頭等をみても、世界がこれからますます内向きになっていくことは想像に難くない。経済成長が止まり自分たちの生存も脅かされているような状況で、自由、平等、人権等々、近代的なリベラルな価値の重要性をひたすら説き続けてみても国民的統合は決して果たせないであろう。

かといって必要以上に内向きになる必要もない。最近のテレビ番組によくあるように日本人の民族性をことさら強調しその純粋性を自明視するかのような言説は、さすがに時代錯誤であって差別を助長するようなものにしか思えない。必要なのはそのようなあからさまにフィクショナルな公共性ではなく、より身体実感に近いかたちでの手触りのある公共性である。その意味でも、中間共同体の再構築は必須となってくるであろうし、それなくして現代の根無し草状況を脱却するすべはないであろう。つまるところ、現代で必要なのは小規模、中規模の公共圏であり、個人と国家の暴力的な媒介ではない中間集団を介した段階的な媒介である。その具体的かたちはまだはっきりとは見えてこないが、おそらくは伝統的な地域を軸としたものというよりも、教育あるいは宗教を軸としたものになるであろうと考えている。

そして内向きの方向性が強まっていくであろうことは経済においても同様である。現代のグローバル資本主義は国内外における格差を助長するばかりで必ずしも人間を幸せにしないことに多くの人が気づきつつある。TPPのように自由貿易を推進する方向で得をするのはほとんどの場合において資本側であって、多くの国内産業はそれによって疲弊し、中間層は周縁へと追いやられることになる。国内にあるかどうかもわからない資本のために国民が犠牲を強いられることはあまりにばかげており、このような不公正感がグローバル資本主義に対する反動の動きを生じさせても決して不思議ではない。

そして、経済成長率という数字に固執することも同様にばかげている。近代化が一定以上果たされた国において経済成長が止まるのは必然であり、それを絶対視すれば新たな破壊と収奪が必須となる。資本側からみれば資本主義が自己延命を望むのは当然かもしれないが、その延命のさせ方にも明らかに無理が生じてきており、このまま行けば新たなバブルの生成と崩壊を生み、再び中間層が周縁へと追いやられることとなる。経済成長を前提として作り上げたシステムを再構築することは難事ではあるが、それを避けてインフレ目標公共投資法人税の減税や規制緩和などこれまで通りの成長戦略を推し進めていくのであれば、いつかシステムに破綻をきたし次世代に途方もない負担を強いるだけのことである。

政治的に見ても経済的にみても明らかに風向きが変わり、移行期に差し掛かっている。成長やウィンウィンといった20世紀的価値が実際にはある期間ある地域においてのみしか起こらない限定的なものでしかなかったことが明らかになりつつある。「ふたつよいことさてないものよ」。これからの時代、本気で考えなければならないのは成長でもウィンウィンでもなく、痛み分けの手法であろう。

参考文献

C.ダグラス・ラミス(2004)『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』、平凡社

ポール・クルーグマン(2008)『格差はつくられた』、早川書房

佐藤拓己(2008)『輿論と世論 日本的民意の系譜学』、新潮社。

宇野重規(2010)『<私>時代のデモクラシー』、岩波書店

マウロ・カリーゼ、村上信一郎訳(2012)『政党支配の終焉 カリスマなき指導者の時代』、法政大学出版局

水野和夫(2014)『資本主義の終焉と歴史の危機』、集英社

シンギュラリティと人間

 

2016年12月26日

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 人工知能が人間の能力を超えてしまうという問題は、昨今盛んに議論されているが、現在の時点ではそれが人間生活にどの程度の影響を及ぼすのかについての予想は論者によって様々であり、それが人類にとって脅威となるものなのか、それともその幸福に資するものになるのか判断することは難しい。ただ個人的な印象としては、シンギュラリティによって様々な場所で雇用が失われ、多くの人間が路頭に迷うというシナリオは十分にあり得る話のように思える。

 人間の手によって作り上げた機械が、人間の雇用を奪ってしまうというとなにか本末転倒なディストピアのようにも聞こえるが、経営者がコストを最小化しようとすることは当然であり、そうでなければ市場における競争にも勝つことができないため、仮に人工知能のほうが人間よりも能力的に優れコストも安くなるのであればそれが人間の雇用にとってかわるのは必然である。これまではグローバル化によって企業が途上国に工場を移転し、本国での雇用が減ってしまったことが問題とされたが、今後は人工知能による雇用の喪失も深刻な問題となっていくであろう。

 次の時代における雇用状況の不透明性は、たとえば行政の進める「超スマート社会」の取り組みにもよく現れている。「超スマート社会」は一言でいうのであれば、必要なモノ・サービスのユビキタス化によって活き活きと快適に暮らすことのできる社会のことであるとされ、これは「狩猟社会」「農耕社会」「工業社会」「情報社会」に続く次なる社会のかたちとみなされている。しかし少し考えてみれば分かるように、狩猟・農耕・工業・情報といった先の四者はすべて人々の職業の形態を問題としているが、超スマート社会は職業の形態については問題としておらず、産業構造がどう変化しているのかについては不透明である。第28年版科学技術白書によれば、超スマート社会で活躍できる人材は(1)最新技術に精通した人工知能技術者、(2)データサイエンティスト、(3)サイバーセキュリティ人材、(4)起業家マインドのある人材とされているが、このような人物はおそらくは全人口の数%未満の極めて限定的な人材であり、その他の一般市民がどのように生活しているのかについてははっきりとは見えてこない。仮に超スマート社会がシンギュラリティに到達した社会だとすれば、一般市民はそれの到来によって多くが失業してしまうのであろうか、それとも実際にはそれほどドラスティックな変化は起こらず現在の職業の多くは残り続けるのであろうか、これは非常に予想が難しい問題である。

 そうはいってもやはり人間にしかできない事柄は多く、そう簡単に多くの人間が失業したりはしないであろうと楽観したくなる気持ちもあるが、テクノロジーの発達により必要性がなくなった職業というものは現在の時点においても数多く存在する。たとえば駅の改札の係員は自動改札の導入によって、電力会社の検針員はスマートメーターの導入によってその存在の必然性が疑われ、最近では大手スーパーのレジ係もセルフレジの導入によって人数削減が目論まれている。タクシーの運転手も自動運転が可能となった将来、失業する可能性もゼロではないし、ビルの清掃員などについても同様のことが言えるであろう。

 かといって失業する可能性が高いのは単純作業を繰り返す労働形態だけであるかというとそうとも言い切れず、研究者、学芸員、エンジニア、エコノミスト精神科医、作曲家、ファッションデザイナー、小説家、シナリオライター等々、高度の専門性や創造性が必要とされる頭脳労働こそが人工知能によって代替されやすく、手先の器用さが求められる職業のほうが生き残る可能性が高いと見るような向きもあり、シンギュラリティの到来によって職業形態がどのように変化するのかについて見通しを立てることは極めて難しい。辛うじて言えそうなことは情報を主だって扱う職能よりも、サービス業や一部の営業職や管理職など対人関係を主だって扱う職能のほうがその影響を受けづらいであろうということぐらいであろうが、それについても断定的なことは言えないであろう。

 これからの時代、人間における創造性とは何か、枠組み自体を問う力とは何かといった問題をこれまで以上に厳しく問われることになり、常に「コンピュータに代替できないなにか」を求められることになるであろう。シンギュラリティの到来によって得られる肯定的側面ももちろん様々なかたちで存在するであろうが、万人が万人、人工知能に代替されぬほどに創造的であることを求められる社会というのもそれはそれで生きにくい社会のように感じられる。

参考文献

小林雅一『AIの衝撃 人工知能は人類の敵か』講談社、2015

鈴木隆博『シンギュラリティの経済学』百年出版、2016